繊維学とその基礎学問領域の成果を研究報告書、書籍発刊、講演会など
の啓蒙活動によって広めるとともに、当財団が維持管理する国登録有形
文化財「衣笠会館」の一般公開事業を行う。
学術講演会の開催
平成28年度後期学術講演会
講演者 : 尾形充彦氏 元宮内庁正倉院事務所整理室長
日時 : 平成28年10月1日
場所 : 公益財団法人 衣笠繊維研究所 2F 小集会室
正倉院の染織文様 -- 今日の伝統工芸染織品への道筋 --
元宮内庁正倉院事務所整理室長 尾形充彦
講演要旨 :
奈良帝室博物館「正倉院宝物古裂類 臨時陳列」(大正14年(1925))が開催され、中国唐風の世界性のある文様が、新鮮
な驚きを伴って観客の目に飛び込んだ。西陣の染織工芸家、有職家、美術史家、歴史学者、考古学者のみならず、一般の人々にも大きな
反響を呼んだことが知られる。
正倉院の染織文様が実際に製品に反映されたのは、大正時代の末から昭和の初めにかけて、帝室博物館から委嘱され、初代龍村平蔵が
1回目の納品と共に復元模造品の一般頒布を行い、高田義男(装束調進方高田家当主)が博物館に納品したことに始まる。 さらに、古裂展
で影響を受けた当時の西陣の織り匠達が、巷間に出回った頒布裂などを参考にして正倉院正倉院列の復元模造を行った可能性は、否定で
きない。新しい潮流が生まれていたと言えよう。
20世紀前半に突然登場した正倉院の染織文様は、西陣を始めとする染織業界に新風を吹き込み、伝統工芸の染織品生産の世界において
今日でもなお強い影響力を維持し続けているのである。
講演配布資料:
法隆寺裂と正倉院裂
飛鳥時代の染織品は、法隆寺に伝わった約2000点(これは現在東京国立博物館法隆寺献納宝物館に収納されているものの
点数で、法隆寺にも幡や帯など幾らかの染織品が伝わる)と言われる法隆寺裂と称される染織品の中に含まれている。
奈良時代の染織品は、東大寺に唯一残った正倉(平安時代後半の時点で他の大きな倉は全て壊滅していたと言われ、今日の
正倉院に当たる)に収納された状態で今日まで伝わったものがほとんど全てを占めている。僅かに、犍陀穀糸袈裟(弘法大使将
来、東寺蔵)、七条刺納袈裟(伝教大使将来、滋賀県 延暦寺蔵)、方円彩糸花網(鑑真和上将来、唐招提寺蔵)、刺繍釈迦如来説
法図(京都 勧修寺伝来、奈良博蔵)等の諸寺に伝わる染織品が奈良時代のものとして知られるが、それらは全て中国唐製で我
が国へ将来されたものである。正倉院の染織品も、六朝から唐にかけての中国出土染織品と比較検討された結果、六朝期と隋・
唐の影響が強いことが明らかにされているが、大部分が国産である。
錦綾羅等の高級織物や薄絹や縮絹や細密な(糸の細い)麻布等特殊な織物は、『令集解』によると、平城宮内の織部司を中心
に、織部司の付属品部(律令制下、官司に隷属し使役された特殊技術者集団)の河内国、摂津国、近江国等に拠点のある錦綾織
110戸(河内国に居住)、呉羽部7戸(河内国、摂津国に居住か)、河内国広絹織人350戸で織成されていた。また、中央には、中
務省の被管である内匠寮にも、12人の錦、綾、羅の織り手がいた。染色は、織部司の付属品部である緋染70戸、藍染33戸(大
和国と近江国に居住か)が行っており、宮内省の被管である内染司には、染師2人が配置されていた。臈纈染めに関しては、正
倉院文書に、臈纈工、押臈纈、染臈纈などと称される臈纈工が写経所に居た記録がある。中央における高級織物の生産は、近
在の技術者集団が支えていた。.絁と称された平絹や普通の麻布は、地方諸国で生産され、税制に則って、調絁と調庸布と
して中央へ送られたものが用いられた。
平安時代の有職織物:
平安時代に生まれた染織品として、有職織物が知られる。それは、有職故実に則った公家の装束衣裳(男子の正装は束帯、
女子の正装は五衣唐衣裳(いわゆる十二単))並びに並びに調度品に用いられる定型化した有職文様の織物のことを指して、近世
に名付けられたもので、応仁の乱(1467~1477)により京都の大半が焼けたため、古いものは、平安時代後期の広島厳島神社古
神宝の錦半臂や鎌倉時代の鶴岡八幡宮古神宝の袿5領などの僅かな遺品しか伝わっていない。源氏物語絵巻(平安時代末期)、伴
大納言絵巻(平安時代末期)、信貴山縁起絵巻(平安時代末期)などの絵巻物に絵画として描かれた装束や衣服により、平安時代の
有様が研究されている。絵画や近世の有職織物から見て、技法には浮織、固地綾、二陪織などがあり、文様には、雲立涌文、
桐竹鳳凰ぶん、窠に霰文、小葵文、浮線綾(臥蝶丸・八藤の丸)文などがある(文様の名称は近世に名付けられたもの)。
従来から、平安時代に国風文化が盛んになり和様化すると、正倉院の異国的な雰囲気を持つ強烈で恐ろしく緻密な文様は、温
和で優しい調子の主題に変えられ、正倉院の文様との繋がりが切れたように思われがちであったが、今日では、正倉院の染織文
様すなわち中国唐の染織文様との深い繋がりがあるという見方が有力である。
平安時代の染織品の実物資料は、数量的に僅かであるが、沢潟威鎧(平安時代前期、愛媛県 大山祇神社蔵)、赤糸威鎧(平安時
代後期、東京都青梅市 武蔵御嶽神社蔵)、紺糸威鎧(平安時代後期、厳島神社蔵)等に用いられている威毛の色糸、岩手県平泉町
の中尊寺金色堂の須弥壇下の棺に納置されていた白平絹の衣類(平安時代後期)、京都神護寺の後白河法皇奉納の紺紙金字一切経の
経帙(平安時代後期)、広島厳島神社の平家納経の巻紐(平安時代後期)、同神社古神宝のうち錦半臂(平安時代後期)、大阪市天王寺
懸守(平安時代後期)等が伝えられている。
室町・桃山時代の名物裂:
室町時代になると、有職織物として、熊野速玉大社に伝わる古神宝の中でも染織品に当たる神服類即ち袍、直衣、衵、表袴、
指貫、裳、唐衣、その他、衾(就寝時に体に掛ける古典的な寝具)、箱の内張、袋、懸守などが伝わり、辻が花の小袖や胴副(いわ
ゆる陣羽織)などが伝わる。中でも、織物としては名物裂が著名である。そもそも名物裂とは、中国宋、元、明の染織品や16~
17世紀の南蛮貿易によるビロ-ドや木綿の更紗などを主として、江戸時代初期から中期に舶載された染織品を加えたものからな
る。当時、外来の裂地は、衣服や調度等として縫製された後、再び茶道具を包む仕覆や掛物の表装に用いられて、茶人や商人ら
に珍重された。その中には、中国総、元、明の製品、禅僧が中国より将来した袈裟、16世紀以降の南方産の染織品も含まれてい
る。それらは、日本には無かった技術を用いた金襴、銀欄、緞子、繻子、綸子、モ-ル、印金等であり、名物裂と称されるのは、
後世(江戸時代中頃以降)である。
名物の名前は、茶道の世界では、室町時代の観阿弥、世阿弥父子による伝書『君台観左右帳記』に東山御物とされるものを大
名物、川上川上宗二が天正16年(1588)2月27日付で著した『茶器名物集』に記されているものを名物、小堀遠州が世に広めた多
数の茶道具群を中興名物と呼んだことに由来すると考えられている。そこには、まだ染織品は記されていない。茶道具と密接な
関係にある帛紗や仕覆に用いられている外来の珍しい染織品が名物裂と称されるのは、江戸時代の中頃からである。後世の諸本
の典拠とされている江戸後期の松平不昧著の『古今名物類聚』(寛政元年(1789)~同9年(1797))は、初めて名物裂を分類整理し
て公刊された出版物として知られる。その中には、約150種の名物裂が示されている。文化元年(1804)刊の『和漢錦繍一覧』に
は、342種が収録されている。今日では、茶道各流派独自の名物裂が選定されることで、その総数は400種類を超えると言われる。